【香港図鑑54】陶器・磁器──欠けた美しさとの対話

【香港図鑑54】陶器・磁器──欠けた美しさとの対話

― 見えない時間を想う、静かな展示室で


僕は、絵を見るのが好きです。
忙しない毎日のなかで、展示室の静けさに身を置き、作品とじっと向き合う時間は、思考の輪郭をそっと整えてくれるような気がします。
香港に住むようになってからも、その習慣は変わりません。
週末やふと時間が空いたときに、美術館や博物館を訪れては、気になった一角で足を止め、作品と無言の対話を重ねています。


🏺 焼き物に引き寄せられる理由

なかでも、陶器や磁器の展示には、自然と目が引き寄せられます。
形のゆらぎや釉薬の流れ、絵付けの細やかさや色の深み…。
それらは単なる“器”ではなく、その時代や土地の空気を、静かに閉じ込めた記憶装置のようにも感じられます。
人の手で土がかたちづくられ、火にくぐらされ、誰かの生活の中で役割を果たしてきたもの。
そこには、言葉を持たない物語が確かに宿っているように思うのです。


🌏 香港・シンガポールの展示で感じる「欠け」の存在感

ただ、香港やシンガポールの博物館で陶器を見ていると、ときどき少し寂しい気持ちになります。
展示されている陶器の多くに、明らかな破損や欠けが見られるのです。
それは、ちょっとしたヒビや色あせではなく、器の一部がごっそり失われてしまっているような状態。
もちろん、そうした陶片にも歴史的な価値があり、学術的には重要な資料だと理解はしています。
それでも、“器”としての姿を思い描くのが難しいと感じてしまう瞬間があるのです。


💡 展示スタイルがもたらす印象の違い

展示方法の違いも、そう感じさせる一因かもしれません。
たとえば、陶片をガラス床の下に敷き詰めて見せるような、インスタレーション的な演出。
視覚的には新鮮で面白いのですが、“器”を一つの存在として捉えるには、やや距離があるようにも感じます。
一方で、日本の博物館では、たとえ名のない日用品であっても、
照明で丁寧に浮かび上がらせ、なるべく器形が整ったものを一つひとつ独立して展示する傾向があります。
そのせいか、こちらの展示に触れたときに、
「もっと整った姿で見てみたかった」という欲が出てしまうのかもしれません。


🌿 欠けた器に宿る、もうひとつの物語

けれど、考えてみれば、破片であっても、それはかつて誰かの手にあったもの。
棚に並べられ、食卓にのぼり、日々をともに過ごした痕跡です。
完全なかたちではないからこそ、
**「この器はどんな場面で使われていたのだろう」「どんな人が手にしていたのだろう」**という想像の余白が生まれます。
その不完全さの中に、むしろ“生きた証”のような温度を感じ取ることもあるのです。


⏳ 欠けの向こうに、時間の流れを想う

香港に暮らしているからこそ、こうした展示にふと出会える日常があります。
旅先では見逃してしまうかもしれない、地元の博物館の小さな展示室。
そこに並ぶ欠けた器の数々は、完成された美しさとは別の、時間の積層を感じさせてくれる存在です。
器の縁が欠けていることに気づいたとき、
それを「壊れている」と見るのか、「物語の入口」と見るのか。
その違いが、鑑賞体験の奥行きを変えていくように思います。


日々の生活のなかで、美術館に足を運ぶという行為は、
忙しさに埋もれがちな“感覚の輪郭”を、そっと取り戻すための時間でもあります。
欠けた焼き物の向こうに、目には見えない人の手と時間を感じながら、
またひとつ、静かな気づきを拾い上げる日々です。
(了)

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